日本語に求められる機能

id:michikaifu さんの言ってることは全く正しいと思う。しかしその前に「日本語は何のために存在しているのか」という根源的な問いを考え直してみた方がいい。実際のところ、 日本語は、意思や情報を伝達するコミュニケーションのために存在しているわけではない。日本人が日本語に期待している役割はそれ以外の部分にある、と考えた方が日本語の現状を機能主義的立場からよく説明できる。

国家生き残り戦略としての日本語リストラ (id:michikaifu)
そこでつらつら考えるに、ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、「国家百年の計」を考えると、ここでおもいっきり、日本語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。

たとえば duke が昔書いた 日本人の国語力 って話があって、こんな感じ。

日本人の国語力 (Rauru Blog)
どうやら日本人にとって国語とは「人前で恥ずかしい思いをしないような言葉の使い方」であるらしい。「何かを伝えるための手段」では無いし、「言語によって論理的に思考するための方法」でも無い。
言葉を替えると、「自分が集団の一員であることを示し、仲間外れを防ぐための手段」ということになるだろうか。学校の国語教育がそれを目指すのも当然と言えば当然だし、コミュニケーションや論理的思考の方法を国語の時間に全く教えないのも致し方無いことなのだろう。文芸観賞に流れがちなのも、「大人になって恥ずかしい思いをしないように」文芸作品を教養として知っておかせたいという配慮が遠因にあると見る。

つまり、日本人が日本語を学ぶ主要な目的の一つに「恥ずかしい思いをしない、仲間はずれになりたくない」というものがある。逆に言えば、「相手に恥ずかしい思いをさせる、仲間はずれを作り出す」ということが日本語の主要な機能として日本人から求められている、と言えるんじゃないか。ネット上で「日本語でおk」などと相手の日本語のおかしさを揶揄する悪口が溢れているのを見てもそれがわかる。
日本人は相手に恥ずかしい思いをさせたり仲間はずれを作ったりするのが大好きで、日本語はそういったいじめの切っ掛けを多数作り出せるように意図的に難しく作られている。私はそう考えておるのだけれど、どうぢゃろう。
なかなか「文化の日」っぽいエントリになったんぢゃないかと自画自賛しておるんぢゃがー。