21世紀の道徳

今日 Tumblr でこういうコピペ文章を見かけたのだけど、道徳って何のために学ぶんぢゃろね。

学校で教わった綺麗事が社会では全く通用しません。
僕は何のために道徳を学んだのでしょうか?
これからの道徳の時間にはカイジとウシジマくんを子供たちに読み聞かせてあげてください。

日本人の大半はたぶん「ムラ社会の掟を学んで自分をそれに適応させるため」のものが道徳だと思ってるよね。一方1492年にジェノバ人船乗りが再発見した大陸の一部に住んでる連中はどうも「あるべき理想(自由とか民主主義とか)を学んで世界をそれに押し付けるため」と考えてるんじゃないかっつうフシがある。
まあアメリカ人のおせっかいにも困ったものなんですけど、でも日本流のやり方もどうなんぢゃろう。日本では道徳は「建前としての綺麗事」だけをマントラのように暗誦させ、それとは別に一筋縄ではいかない現実を体験により自力で学ばせる。その二つには結構なギャップがあるんだけど、「建前と現実の二重性」としてそのギャップをそのまま受け入れるのが日本人とされてた。それが20世紀までの道徳だった。
21世紀はそれじゃいかんのじゃないかなあ。理想を語り、現実を見せた上で、「現実を少しでも理想に近づけるための方法論」も考えさせるべきなんじゃないか。綺麗事が通じるよう現実の方を作りかえる力を持った21世紀人を育てるために。
とは言っても、教える側の教師も親も、そういう方法論をほとんど知らない。一緒に考えていく必要があるぢゃろう。私も考えたい。