ジャーナリズムに必要なもの

私が考えるジャーナリズムの一番重要な要素って、「自分で取材すること」かなあ。

なぜ新聞にジャーナリズムを期待するのか? (POLAR BEAR BLOG)
そもそもジャーナリズムという言葉自体、定義があいまいなまま使われているように思います。いったいどんな状態が理想とされていて、その中で新聞にどんな役割を担ってもらいたいと思っているのか。新聞はその役割を担うのに最適な存在なのか、ネットはどこに位置付けられるべきか。いったん全ての前提をクリアして、ゼロベースで考えてみることによって、単なる「新聞ってバカだよねー」以上の議論が行われるようになると思うのですが。

なんでそれを重要視するかって言うと、ネットでの言説に一番大きく欠けてるものだから。既にネット上にある情報を拾ってきて、それに感想付け加えたり、反論したり、てのが基本パターンだよね。自分の体験談が加わる場合もある。けど、自分で取材して積極的に情報を集めてくるってことは極めて限定される。もちろん日記としての体験記はいっぱいある。しかしジャーナリズムとしてどうかってえと、疑問符がつくな。一次ソースになれない、と言ってもいい。実際、単なる体験記を超えたジャーナリズムとしての取材活動ってのは、プロとしてそれなりの訓練を受けていないと難しい。だからそういうのをプロのジャーナリストに期待したいわけだ。
なんだけど、最近のマスメディアは、警察の発表をそのまま報道するような方向が多くて、自分から積極的に取材する調査報道というものがかなり減退してる。大きな問題なんだけど、原因はまあいろいろある。マスメディア内部の姿勢が問題だという話もある一方で、例えばこんな指摘も。

ネット企業の名誉毀損対策――ミクシィと「はてな」 (歌田明弘の『地球村の事件簿』)
いずれにしても、あやふやなことを書かなければいいだけではないかと思うかもしれないが、前回書いたように、名誉毀損になるかどうかは、裁判官の感性ひとつにかかっているところもある。
マスメディアの報道では、独自取材をした記事が訴訟のリスクにさらされるのに対し、警察発表などに頼っていれば心配はない。裁判結果がどっちに転ぶかわからないとなれば、リスクのある報道はためらいがちになる。
メディアの安易な報道姿勢が批判されるが、法律も裁判所の判決も、調査報道の衰退と公式発表頼りの報道を促している。司法のあり方はメディア状況を方向づけてしまう。

もしマスメディアが調査報道能力を失いつつあるなら、ネットがそれを補わなきゃいけない。けど現状の日本のネット界って、そうなってないよね。情報リテラシーなんて言葉は流行ってて、「複数ソースを当たることの重要性」もよく言われてるけど、あくまでソースが誰かによってもたらされてることが前提で、自分で取材・調査することは想定されてない。しかも、複数ソースを当たると言いつつ実は「自分にとって都合のいいソースが見つかるまで探す(見つかったらそこでやめてしまう)」つう行動パターンも多々見られる。ネット上にはいろんな嘘も含めてどんな言説でも転がってるので、誰もが「自分に都合のいいソース」を手軽に見つけることができてしまう。
一方アメリカなどでは、市民ジャーナリズムとか言われて自分で取材・調査する blogger もスポットを浴び始めてます。取材源の秘匿とかいった「報道の自由を確保するための免責特権」を blogger に与えるかどうかまで連邦議会で真剣に議論されてる。そういうのを見るとすげえなとか思うわやっぱ。日本もそういう風になる日は来るんかなあ。なんか、そういう市民ジャーナリズムに対する日本のネット住人の態度って、どうも冷笑的な感じばかり受けるんぢゃよね。