プライバシーの幻想を超えて

実は私も「プライバシーなんて幻想に過ぎない」つう池田信夫説には全く賛成なんですよ。プライバシーなんて、短く見積もれば100年ちょっと、長く見積もってもキリスト教の「懺悔」つう風習ができて1,000年ちょっとの間に作られた、人類の歴史から見ればぽっと出の新しいコンセプトにすぎない。ただ、その幻想を前提にして社会が回るようになってしまったつうのも事実ぢゃよな。それをどう解決するか。私は「段階的にプライバシーへの依存を減らしていく」という方針で臨みたい。

プライバシー幻想ふたたび (池田信夫blog)
根本的な点は、プライバシーは法的に保護さるべき人権ではない、ということだ。これは普遍的な権利ではなく、1890年にWarren-Brendeisの論文で「有名人が私生活を撮影されない権利」として提唱された特殊な概念にすぎない。プライバシーを人権とするかどうかについては、1980年代に論争があったが、これは表現の自由を侵害する権利なので実定法で保護するのは好ましくない、というのが世界の通説だ。日本の法律も「プライバシー」という言葉は避けている。

まず大原則として、プライバシー保護はあくまで個人が幸福になるための手段であって、プライバシーそのものが目的では無い、という点を確認しておきたい。プラバシー保護という手段が無くても個人が幸福という目的が達成されるなら、それでも問題無いわけです。
問題は、現実の社会がプライバシーに依存してしまっているという点。今突然プライバシーが保護されなくなると、不幸な人が大量に出る。そりゃやっぱ何とかしなきゃいかんわな。
でも、プライバシーつう幻想に頼り続けるのもやっぱダメだと思っちょります。我々は人権の保護をプライバシーに頼りすぎてる気がする。本当はもっと根本的に解決しなきゃいけない問題を、とりあえずプライバシーてことで隠してしまえば解決、って安易な道に逃げてないかい。
そのツケは、運悪くプライバシーを暴かれてしまった人が被ることになります。そういう人に対しては救済の道がほとんど無い。しかも世間はそういう人に冷たい。極論すればこういう言い方もできるんでないかい。プライバシー保護とは、運良くまだプライバシーが侵害されていない人の既得権保護に過ぎない、と。
こういうことを言うのは理想主義かもしれんけど、我々は、プライバシー保護が無くても人権が守られるような社会を目指さにゃならんと思うんですよ。Google Street View で家の表札が曝されても大丈夫な社会とかな。もちろんそれは簡単な話じゃなくて、一朝一夕でできることじゃない。だから、現実社会の諸問題が解決されるまでの暫定措置として、当面はプライバシーを保護し続けましょう、てことなら、これは理にかなってると思う。問題が解決されて、少しずつ現実と理想とのギャップが埋まるにつれて、段階的にプライバシー保護も解除していく。これがあるべき姿なんじゃないかと。
だから、Google のように情報流通を促進する企業の CSR の姿勢としては、プライバシー保護が無くなることによって発生する現実の問題を解決して、「プライバシー保護が無くてもたいして実害が無い状態」を作り出すことに取り組む、べきなんじゃないかい。Google だったらそれを新技術によって解決できることも結構あるんじゃないかと、私は楽天的に見てます。まずは考えられる実害を全部リストアップしてみて、それぞれを問題分析して、解決策へとクラックダウンしていく、みたいな段取りかな。