なぜ被害者を助けないのか

現状で被害者より加害者の方が手厚く保護されている状況は結構見受けられます。なんだけど、そこで「だから加害者を罰するべきだ」という方向に行きがちなのは何故なのかね? 「だから被害者を窮状から救うべきだ」がまず来るべきだと思うんだけど。例えばこの記事。

なぜ被害者より加害者を助けるのか (FPN)
神戸での少年殺人事件で、被害者の兄(少年)は大変なショックを受け、医師による治療を必要としましたが莫大な治療費は自費です。一方、加害者の方は国の費用で医師団まで結成して対応し、数年後には釈放されています。
(中略)
犯罪被害者の情状を酌量すれば、今後は加害者に対する厳罰化が進むことでしょう。罪には罰を、という管理主義がよいのか、更生や性善説を信じる夜警国家がよいのか、もちろん議論が必要でしょう。裁判員制度の狙いは法律の文言に縛られずに個人個人の価値観に基づいた判断を要求されるということでしょうから、多面的に物事を考える能力が必要だと思います。光市母子殺害事件の判決が結果的に「死刑のハードルを下げる」ことに繋がるのか、それは我々自身の考え方にかかっていることを自覚しなければいけませんね。

この記事の冒頭では「被害者の治療費が自費だ」と言う点を挙げて被害者の窮状を訴えてます。ところが終わりの方に来ると「被害者の情状を酌量すれば厳罰化に」とおかしな方向に行ってる。厳罰化すれば治療費を自腹で払えるようになるの?
こういうパターンって結構多いと思うんですよ。「○○な人たちを助けよう!」と言っているように見せかけて、実は自分のアジェンダ -- 例えば「厳罰化が必要だ!」とか、あるいは「加害者の人権擁護を訴えてるようなやつらはクソだ!」みたいな主張を宣伝したいだけ、って人たちが。でも実際には被害者の窮状の解決になってない。それって自分のアジェンダのために被害者を利用してるだけですよね。ひょっとしたら、被害者の窮状が続いてくれた方が宣伝に都合がいい、のかもしれんね。
まあ厳罰化は勝手にやっててくれていいよ。厳罰化そのものに特に反対はしない。しかし被害者の窮状をどう救うかって本当に重要な問題だと思う。ダンコーガイが先日 元少年に死刑判決 - 死刑の是非の前に問いたい是非 って記事を書いて、確かに「被害者に対する補償が充分に篤ければ、死刑を求める声も減るはず」ってのにはかなり疑問もあるけど、それでも被害者への補償を手厚くすべしってのには全く賛成ぢゃよ。そういうのを真面目に考えてみんかい。どうすれば犯罪被害者の窮状を救えるかを。