嫌儲とオープンソース

筋の通った話ではあるけど、これを Creative Commons 的視点から考えるとどうなるんだろう。てなことを考えてみた。

「嫌儲」と「疎外されたネタ生産」 (id:syujisumeragi)
2ちゃんねる系のまとめサイトや出版は嫌われるのは、コミュニティの参加意識を無視することが最大の原因である。僕はそういうふうに考えている。簡単に言ってしまえば、編集・出版過程において書き込みに参加したたちの感情や思い入れが無視されるということである。

例えば2ちゃんねるのコンテンツが非営利・継承の Creative Commons として公開されるならOKってことになるんだろか。それとも、Creative Commons の、もっと広く言えばオープンソースの思想自体と相容れないってことになるんだろか。どうも後者のような気がしてしまうんですよ。コミュニティをどこまで認めるか、的なところで。
例えばコピーレフトについて言えば、「GPLに従うものは仲間」的なコミュニティ意識があるような気がしてます。コミュニティ外にいる人にとって見ると GPL汚染 とか言うことになるんだけど、そうやってどんどん GPL に同化してってコミュニティを拡大してくのって Borg みたいですげーかっこいいよなーとか私なんかは思うわけです。抵抗は無意味だ。
これはおそらく、コードをハックするという創作活動は誰がどこでやってもよい、て感覚あるんだと思う。それは GPL に限らず、BSDライセンスな人たちも、Creative Commons 系の人たちも、みんな一緒だな多分。コミュニティがとても広い。
んで、GPLなソフトを使って金儲けするのも全く問題無い。なぜなら、金儲けしてる人も「GPL使い」という点でコミュニティの仲間だと見なされるから。ただしコードをクローズドにしちゃ駄目だけど。「コードをオープンに」という哲学で結びついたコミュニティなんだな。
これに対して、上で述べられてる2ちゃんねるのコミュニティ意識という話が本当だとすると、フリーソフトウェア/Creative Commons のコミュニティ意識とはかなり違うよね。2ちゃんねるにおける創作つまりネタ生産は、あの2ちゃんねるという場で、その場のノリと空気を共有してる者で行われなきゃならんのぢゃろうなあ。コミュニティがかなり限定されてる。何かの哲学があるわけじゃなくて、「一体感」なんだろうなあ。私みたいに感覚が鈍いせいでそういう一体感を感じられない人間からすると「???」ってことになるんだけど、しかし当事者の人たちは一体感に浸ってるんだろうってことは論理的に理解できる。同じことは発言小町発狂小町問題にも言えたんだろうなあと予想。
いや、だからどうなんだって結論は何も無いわけなんですが、ごめんなさい。まあこんなことをつらつらと考えてみたわけですよ。