労働生産性

「日本の国内向け産業は労働生産性が低い」とかいう話が語られるときって(例:アゴラ)、その労働生産性という言葉の定義が 付加価値生産量 = 労働生産性×労働時間 であることから、労働生産性ないしは労働時間を増やせば付加価値を増や すことができる、っつう前提が含意されてるよね。でも、本当にそうなんだろか?
日本の国内産業の現状を見るに、労働時間とか生産性とかとは無関係なところで付加価値生産量が最初から決まってしまっていて、それは諸々の事情でもう増やすことができなくて、あとはその固定額の付加価値を給料として労働者に配分するに当たって「労働時間に応じて配分する」てなルールが適用されてる、ってことのように思えるんだけど、どうぢゃろ。
なんで付加価値生産量が最初から決まってるかって言うと、国内市場がゼロサムで基本的に成長の余地が無く、それを皆から大きな不満が出ないように企業間で配分する静的なメカニズムがあって(談合とか)、って感じなんだと思う。需要全体のパイが一定量しか無くて、それを増やすようなイノベーションが無い。
一方労働時間については、労働時間を増やしたからと言って付加価値生産量が増えることは無いんだけど(需要が一定だから)、企業の利潤を労働者に分配するに当たって「どういう配分ルールにしたら労働者の不満が一番小さくなるか」という考え方で、労働時間に応じた配分というルールが適用されてる、てことなんだと思う。「一番きつい思いをした人が一番報われるべき」っつう日本的な理念から自然に導かれるから。年功序列も同じ。近年これらがうまく機能してないのは事実だけど、これを裁量労働制や成果賃金制に置き換えたところで、「付加価値生産量が一定」っつう制約がある限り、まーやっぱうまく行かんよね。リバタリアンはしきりに「労働力の再配置を」とか言うけど、問題はそこじゃないと思うんだよなあ。
ちなみに輸出産業の生産性が高いことについては、「国内向け産業は参入障壁で守られてぬくぬくとしてるけど輸出産業はグローバルスタンダードで鍛えられて」とかいう言われ方をするけど、日本の輸出産業にとっては市場のパイがゼロサムでない、つう点の方が重要だと思うのだ。