情の文化と偽善

なぜ日本のネット界隈では「偽善」という非難の仕方がよく使われるのだろう、という話は前々から疑問に思っていて、この日記や本家でも何度か話題に上げてるんだけど、今日はまたちょっと新たな見方を思いついたので、書いてみます。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に対して「偽善だ」と言っている人を今日見かけました。私はこれを全然偽善だと思わないのだけど、たぶん偽善と感じる心理がキーと見た。まず、人を憎んでしまうのは人間の感情として当然のこと。しかし、そこでどうするかという対応が二種類にわかれる。

  • だから、憎まずにいられるなんて言うのは偽善だ
  • だから、感情を意志の力でコントロールしよう

おそらく日本人の大半は前者の考え方なんだと思う。これは日本人が 情の文化 で動いていると考えるとわかりやすい。一方私の考え方は完全に後者。私は「情」よりも「意志」の方を圧倒的に重視するから。
どうも日本人の大多数は、意志の力で感情をコントロールするという方法を身につけておらず、それどころか感情をコントロールしないことを「自分に正直」とか言ってもてはやす傾向があるっぽい。本来「善」というのは意志によって行われるものだけど、日本人は感情によって行うものだと捉えていて、たまたま感情と善の方向が一致してる間はいいけど、このベクトルが乖離した場合には「偽善」と感じてしまう。例えば、募金活動を偽善だと言って非難するのは、募金のメリットを受ける人への嫉妬感情が引き金となって、ベクトルが乖離するんぢゃろうね。
ついでに言うと日本人って、意志を全く持ってないけど理性だけはそれなりにあるので、感情を後付けで正当化するために理論武装するのは得意だったりする。募金活動の問題点をあら捜ししてきたりとか。この理論武装が「偽善」という非難をさらに激しいものにしてるな。でも所詮意志が無いので、そういった非難は結局「善」につながらないのだよね。しない善よりする偽善。