意の文化と情の文化

この 意の文化と情の文化 を3年前に読んだときは結構唸らされたのだけど、日本国内ではあまり話題にならなかったのだよなあ。論文集という体裁の本で、標題作以外の論文がいまいちだった、てのも話題にならなかった理由か。

“意”の文化と“情”の文化―中国における日本研究 (中公叢書)

“意”の文化と“情”の文化―中国における日本研究 (中公叢書)

なんでこんな本を今さら引っ張り出してきたのかっつうと、タケルンバ卿の 実は短気な日本人 の話と良く整合してるから。

実は短気な日本人 (タケルンバ卿日記)
一方、中国人が怒っている場合、その目的は結構わかりやすい。これまた端的に言うと、「怒ることでメリットがある」場合が多い。「何故、怒るのか?」に答えがある場合が圧倒的に多い。ベースには計算がある。損得勘定がある。怒ったことでトクをするから怒っている。
そのため、中国人はムダに怒らない。怒ってもしょうがないものには怒らない。怒っても怒らなくても一緒ならば、彼らはあんまり怒らない。「怒り」という感情を、メリットを享受するための方法、道具として使っているので、実は感情を制御できている。ぶっちぎれているように見えるのは、その方が効果的だからで、実は切れてない。怒りはあくまで手段に過ぎない。経済的利益が欲しい、見返りが欲しい。あるいは怒ってみせることでメンツを守りたい。周囲に対するポーズであることも多い。怒らないとナメられる。だから怒っとけ。そういうケースは多々ある。
逆に日本人は、メリットがなくても怒る。怒りたいから怒る。怒ってどうしたいわけじゃない。怒りたいのだ。怒ることが目的なのだ。怒って目的を達成したいわけじゃない。この点で怒りは手段ではないのだ。ここが大きく違う。利益なんて関係ないし、見返りも求めていると限らない。体面やメンツの問題でもない。何で怒っているのかよくわからない。

漢民族は「意」の文化で、日本民族は「情」の文化なのだよね。中国人は「何かを達成したい」という意志がまずあって、意志を達成するための道具として感情を利用する。一方日本人にとっては感情・情感こそが目的、つまり泣いたり笑ったり感動したり雰囲気を味わったりすること自体が目的。情を超えた持続する意志というものが日本人には存在しない。司馬史観に基づけば明治って清冽な意志を持った人が多く現れた稀な時期ってことになるけど、今日の我々は情として感動するために司馬本を読むのだ。
まあこの分類は漢民族vs日本民族という比較論のために最適化されたものなので、じゃあインド人はどうなのよとか言われると謎なんですけど、でも日本人と中国人の差を浮き彫りにするという点ではなかなか良くできてると思う。西欧が「知」の文化だという指摘も納得し易いけど、でもアメリカ合衆国は意の文化とすべきだろうな。意の文化に基づく連中が大国化すると、チベットイラクのような事態を引き起こしやすい。
ちなみに韓国はどうかと言うと、韓国は国の中に分断があるのだよね。朱子学的な意を重んじるエリート層と、情に走る一般大衆層と。こういうケースでは、王敏が主張してるような大衆文化から親交を進めるというやり方がなかなかうまく機能しないかもしれん。