Kiva

実は私も小額ながら Kiva で出資しとるよ。カンボジアの農業プロジェクト。この5月に貸付成立して、毎月返済されとる。「今月分が返済されました」メールが Kiva から来ると、「おお、がんばっとるなー」て気分になる。

日本において、ソーシャルファイナンスの可能性はあるか? (isologue)
KIVA などでは、ソーシャルファイナンスの使われ方として、「誰からも金を借りられなかった発展途上国の個人事業者などが、P2Pで調達したお金をもとに成功しました」といった(グラミン銀行的な)ことをやっていて、なるほどそういう持ってき方もあるんだな、と思いました。
キリスト教では、「金持ちが天国に入ることはらくだが針の穴を通るより難しい」ので、「寄付」や「社会貢献」といったことが浸透しているし、「自分が出したお金が苦しんでいる人の役に立つ」というのは、必ずしも利息収入を得ることを目的にしない目的の資金提供があるかも知れません。
しかし、日本人は、マクロ的に見ると、あまりそういったことに熱心でなさそうですから、そういった方向から攻めるのも難しそうです。

私の場合、「かわいそうな人にお金を恵んであげよう」つう気持ちはあんまり無いんですが、「自助努力したい人を手助けしたい」て気持ちが結構強くあります。例えば、自分の今の境遇から脱出するため何かに挑戦しようとしてる人とかって、見てて助けてあげたくなるじゃないですか。単に声援送るのでもまあいいっちゃあいいんだけど、実際に役に立つアドバイスをあげられたりとか、障害を取り除いてあげたりとか、そういうことができるともっと気持ちがいい。なので、赤い羽根には正直あんまり募金する気が起きないけど、あしなが育英基金とかは確実に私の心のソフトスポットを突いて来るわー。だって「勉強したいのにお金がなくて勉強できない」んだぜ?
自分には何故そういう気持ちがあるんだろか、ってことをもうちょっと考えてみたんですが、一つには母親の影響があるんだろうなあとは思ってます。私の母親は最終学歴が小学校です。母が子供の頃って第二次大戦まっさかりで、母も疎開してたので、女学校に行けなかったんですよ。終戦後、母は電電公社に入社しました。何故かと言うと、当時の電電公社は、公社の中に学校を持ってて、母のような境遇で学校に行けなかった人のための教育を行ってたんです。母は勉強がしたかったので、電電公社を選んだんだそうな。そういう「勉強したがる気持ち」は年をとっても健在で、70近くなってからMIDI打ち込みだの音声ノンリニア編集だの blog 書きだのに手を出す始末。まあそういう母を見てたから、なのかもしれん。
私にも 辛い境遇にいる人への共感 てのはそれはそれであります。辛さ・痛みはよくわかる。ただ、そういう人に対する私の態度はやっぱり「共感」止まりなんだな。私が「手助けしよう」とまで思うのは、やっぱり自助努力しようとする人。つまり、今の辛い境遇から抜け出すための具体的なプランを立て、そのプラン上「ここが障害になってる」「だからここだけ手を貸してくれないか」と言えるような人。Kiva で私が出資してるカンボジアの Sam Vai の場合、「肥料と燃料にの購入に投資できれば収穫増でそれ以上の増益を得られる」というプランがあった。だから出資した。対して、「今の境遇から抜け出したいけど、どうしていいかわからない」と言う人には、すまん、その辛さ・痛みへの共感はするけれど、手助けまではしてあげられない。「どうしていいかわかるために○○を勉強したい」と言うところまで具体的な行動プランがあれば、たぶん手助けしたくなる。
話をソーシャルファイナンスに戻すけど、社会貢献とか大仰に構えずとも、そういう「手助けする気持ち」でも、日本人には無理かのう。残念ながらそれでも無理そうな気は確かにするのだが。