ハレハレいじめ

ふうむ。つまりこういうことか。ニコニコ大会議でのハゲ罵倒の一件を肯定してる人は、たいていみんな中継を見てた人で、そのリアルタイム性から「ハレの場の空気」に染まった。対して否定してる人の多くは、後になってあの一件が騒がれてから保存動画を見た人で、そういう人にとってはハレの場という意識が出てくるわけがない。んで、ケの日だったらいじめと見なされることもハレの日だったら許される、と。

「ハゲのおっさんから一言」のブクマコメがあまりにも気持ち悪すぎる件 (id:amateru)
今回の舞台は、言はば「ハレ」の場なのだ。
肯定的な見方をしてゐる人は「ハレ」としてこの出来事を扱ってゐる。
しかし、はてな村民はみな普段日常のイジメといふ「ケ」の話ばかりしてゐる。

とかいうことを考えてたら、ちょっと前に書いた嫌儲の話を思い出した。これと共通する話っぽい。

嫌儲とオープンソース
2ちゃんねるにおける創作つまりネタ生産は、あの2ちゃんねるという場で、その場のノリと空気を共有してる者で行われなきゃならんのぢゃろうなあ。コミュニティがかなり限定されてる。何かの哲学があるわけじゃなくて、「一体感」なんだろうなあ。

2ちゃんねるユーザの大多数にとっては、スレで何かが盛り上がってるときってのは常にハレなんだな。あるいは「現実世界==ケ」「ネット世界==ハレ」なのかもしらん。
しかし考えてみると、昔だったら祭りの日には共同体構成員が全員ハレの日っていう拘束性があったけど、ハレの人とケの人が入り混じるネット環境って火種だらけだよねえ。ハレの日気分の人がハレの日気分でケの人相手に絡んだりすると、そりゃあやっぱ問題になるわ。
あと、ハレの日気分の人が「パラダイムシフトだ!」とか叫ぶのもやっぱハレの日気分の為せるわざであって、ケの日気分の人に冷静に突っ込まれるのもむべなるかな。