マスメディアとディジタル野次馬

先月 ustream中継 で書いたことの同工異曲だよなーと自分でも思いつつ書いているところ。あっちを読んだ人はこっち読まなくても多分大丈夫です。

現場で写メする素人は現場で写真を撮るプロとどのくらいちがうのだろうか (H-Yamaguchi.net)
ぜひマスメディア関係のよく考えてる人に聞きたい。マスメディアの取材はデジタル野次馬と何がどうちがうのか。

マスメディアもディジタル野次馬も害という点では同じだけど、その害を為すのが今まではマスメディアに限られていたから害の影響も一定の範囲で収まっていたってことなんじゃないかい。ディジタル野次馬でも誰でも害を撒き散らしてOKてことになったら、結構とんでもないことになりそうな気がする。つまり、電波利権や記者クラブ制によって新規参入の妨げられた閉鎖的な業界の連中だけだったから、結果的に害がそれほど酷くなかった。日本社会には基本的に運悪く被害者になってしまった人に冷たいという文化的性質があるので、その程度の害は大目に見られてた。
しかしこれからはそうは行かないので、どうやって害が大きくならないようコントロールするかってことを真面目に考えなきゃいけない。果たしてマスメディアにそれを考えることができるんだろか。
上の記事ではその解決策をマスメディアに答えさせようとしているように読める。でも同時に、これは私の意地悪な見方だけど、「どうせお前らにも答えられないだろ? だからデジタル野次馬も規制しなくていいはず」という方向に誘導されてるような気がする。うーむ。
私は、この問題ってマスメディアじゃ答えられるわけがないと思う。でも答えられないからってこのまま野放しにしていいとも思わない。そんなことしたら、マスメディアが害毒垂れ流しを独占していた時代よりも遥かに困った未来になってしまう。解決策は、マスメディアの連中の頭では出せるわけなんてないんだから、我々が一人称で考えなきゃいけない。そう思ってるんだが、どうぢゃろう。
ただの野次馬と撮影してる野次馬で何が違うのかって点については、私もよくわからないけど、たぶん傷つけられる方にとってはかなり違うんだろうと思う。最近騒がれた 航空機内での心肺蘇生の実施により心的外傷を負った1例 ではこんな話が報告されてる。

Y氏は心無い乗客の行為によって心的外傷が残り,今に至るまでシャッター音が怖くて携帯電話のカメラ機能が使えていない。また一時は人間不信に陥り,本事例の全てを人に話せるようになるまで約1年を要した。

これは私の想像だけど、レンズを向けられる/シャッター音を聞かされるということは、感情的なプレッシャーを大きく感じるということなんじゃないか。野次馬が何の助けにならないとしても、「頑張れ」と声援を送ってたら実は逆に心理的プラスとして働いてた、なんてこともひょっとしたらあるのかもしれない。「そんなことやってないで助けに行けよ、という点ではまったく変わらないわけだし」のくだりは、元記事でも反発してるコメントがあるけど、「人間感情という要素を考えずに即物的な経済効率だけでものを見ようとする経済学者」つうステレオタイプを喚起しがちなので、山口准教授におかれましては戦略上もいかがなものかと思いますぞ。いや、もともとディジタル野次馬規制派の言葉を逆手にとった言い方だってのはわかるんですが、でもそうやって相手の言葉を逆手に取って反論するのって、昔 duke公平性という口実 で指摘したとおり、「相手を表面上論破するには有効だが現実に適用するとろくでもないことになってしまうような結論に辿り着きがち」「論客としては優秀だが提案に現実性が無い」てなことが多々あるので、注意した方がよいかと。