真の愛

この指摘には考えさせられた。おそらく正鵠を射ていて、耳が痛い。

『真の愛の実現』という妄想 〜 秋葉原殺傷事件に思うこと (電脳ポトラッチ)
加藤の書き込みを読んでいても、この歪んだ All or Nothing の価値観に脳を冒されていると感じる。

  1. 「派遣で不細工な俺」を無条件に愛してくれるかわいい彼女を作る
  2. その目的を達成したら、働く気が起きるから向上心を持って仕事も頑張る
  3. 収入が増えたり正社員になって人生何もかもうまく行くはず

こういう脳内計画を立てていたらしいのだが、1の時点ですでに計画がつまづいているので、当然のことながらいつまでたっても先へ進めない。
つまり彼は、「努力で収入が安定し、将来性が確保できたとして、そのおかげで彼女や嫁ができても嬉しくない。それは俺の経済力が目的なだけの寄生虫だからである。俺自身の価値を認めて愛してくれる女でなければやる気が出ない」と考えていたと思われる。派遣や雇用問題より恋愛問題を重視するのは、この心理によるものではないか。
(中略)
しかしこれもまた、実のところは言い訳に過ぎない。今の時点では不可能な目的をいちばん最初に掲げることによって、実行可能な目的から無意識に逃げているのである。「打算的な女が悪い」という、ネットに流布する物語が自己正当化を後押しする。

最近、承認欲求についての話が急に盛り上がってきてるよね。加藤容疑者が本当にこういう風に考えてたかどうかはわかんないけど、承認を求める話が上のような考え方に向かうと、確かにいろいろ問題だと思う。「承認を与えてくれないような社会がダメだ」てのは確かにそうなんだけど、「社会がダメ」なのを実行可能な目標からの逃避に使うようになると危ない。昨日は非モテが宗教だとか書いてしまったけど、冷静に考えれば、こっち向きの逃避だと考える方が理にかなってるな。
あと注目したいのがここ。

これは拒絶ではない。彼はあらかじめ試しているのだ。メリットもないのに俺の彼女(友達)になる覚悟が本当にあるのか。ダメな俺を無条件で愛する覚悟はあるのか。俺がどんな酷いことを言っても見捨てないか。決して俺を裏切らないと誓えるか?と。
顔も知らぬ相手にいきなり、「我にすべてを捧げよ。さもなくば信用しない」と要求する25歳の幼児に根拠不明の怒りをぶつけられて、何気なく書き込んだ人々はなすすべもなく退散するしかない。

これ読んで、先月書いた話を思い出してしまった。まだ出典思い出せてないんだけど。

ブログ人格 (id:raurublock)
出典を忘れてしまったんだけど、前にどこかで読んだアスペルガー症候群の行動類型の一つとして、「会ったばかりの相手(特に自分が好意を抱いている相手)に対して自分の欠点を全部見せて『このありのままの私を受け入れてください』と願う」てのがありました。その話ではこの行動類型が「人格的に未成熟な行動」と評されていました。確かに一理あると思う。

ただ、「こんな人格的に未成熟なやつは仕方ない、死刑になっても自己責任だ」とか言って切って捨てるのも、それもどうにも忍びないと思う気持ちが私の中にあります。私も、たまたま自分のアイデンティティに対する出所不明の自信があるからまあこうやって何とか人生を生きてけてますけど、それは私が自分で努力して勝ち取った自信じゃないし、もしその自信が無かったら同じように人格的未成熟な行動に走って「真の愛」を求めて周囲に迷惑かけまくってたかもしれん。
個人的な願いとしては、そういう未成熟な人にも、「他人を愛せる」ようになって欲しいんだが。つまり、相手を愛することが結果的に報われないまま終わるリスクがあったとしても、それに怖じずに相手を愛することができるように。「真の愛」を、自分が求めるのではなく、相手に与えられるように。前に信じるということについて書いたことがあったけど、あんな感じで。いや、「愛さえあれば全てがうまくいく」みたいなおとぎ話を説きたいんじゃないのだよ。「人を愛することはいろんな問題や災厄を招きがちだけど、だからこそ、それに負けずに人を愛せるようになって欲しい」のが私の願い。
つっても現実には難しい。「人に愛された経験が無ければ人を愛せるようになれない」っつう話もよく言われてて、それが本当かどうかは私じゃ何ともわからんけど、もしそれが本当だとするとデッドロックだわなあ。しかし、なんか手は無いもんか。こんな日記をうだうだ書いてるぐらいで問題が解決すれば苦労は無いって私もわかっちゃおるのだけどさあ。