与えること/貧しいこと/偽善

シロクマさんとこを読んでてふとひらめいた。

[執着]「与えられる豊かさ」と「我利我利亡者という貧しさ」の狭間で
ただ金銭を積めば良いという話ではない。知識を詰め込めばそれでokというわけでもない。当然だが「お洒落になれば幸せになれる」とか「男女交際にこぎつければゴールイン」とかいった話でもない。しかし、近藤さんが今回指摘したような豊かさを見過ごす人は、実際にあまり満足な生活には辿り着けないと思うし、それこそ「贅沢な貧しさをひけらかす」「執着無間地獄に落ちる」のがオチだろうと僕は思う。
(中略)
ここで少し注意しなければならないのは、ヒロイズム的満足の為に救いの手を差し伸べるアクションをとる人達がいるということだ。勿論そういったアクションは、救いの手というアクションを通して自分自身の満足を貪る行為に他ならない、ということが出来るだろう。他人に何かを与える豊かさのうちには、「情けは人の為ならず」という部分が必ず含まれてもいると思うが、あざとすぎるヒロイズム・ジャンヌダルク気分というのは流石にまずいだろうな、とは思う。そして、あざとすぎるヒロイズムは、見る人が見ればすぐに看過してしまうものだ。

思ったのだけど、「ヒロイズム的満足の為に救いの手を差し伸べる人」というのは、他人のやることに対しても自分と同じような目で見てしまうのではなかろうか。そう見てしまうがゆえに「偽善だ」と言って非難する。
つまり、以下のような三種類の人間がいたとすると、

  1. ヒロイズム的満足の為に救いの手を差し伸べる人
  2. 与えられる豊かさを持っているがゆえに他人に救いの手を差し伸べる人
  3. 他人に救いの手を差し伸べることを「偽善だ」と言って拒否する人

実はこの1.と3.って、正反対に見えるけど、実は同じタイプの人なんじゃなかろうか。3.の人ってのは、自分が「ヒロイズム的満足の為にしか他人に救いの手を差し伸べることができない」から、他人もそうだと思ってしまう。つまり1.も3.も、近藤さんの言う「与えられる豊かさ」を持っていない人なんじゃないかと。