「いい話」の陥穽

yuco さんの書いた 「中出しハッピー!」は本当に「いい話」か? を読んで考えたこと。実は私も元の 中出しハッピー を読んだとき「いい話」だと感じてしまった。yuco さんのエントリを読んでから深く考えてみるに、今回のこれに限らず「いい話」にはたいてい落とし穴があるように思う。多くの人は落とし穴に気づかない。今回はたまたま yuco さんがそれに気づいた。しかしおそらく、世の中で「いい話」と呼ばれているようなストーリーのほとんどにも、同じような落とし穴があるのではないかと。
「いい話」にはたいてい、何らかの形で不幸な境遇にいる人が登場する。その不幸な境遇は社会的に作り出されたものだ。そしてストーリーが「いい話」で終わっても、不幸な境遇を作り出している社会的な構造は何も変わらない。登場人物には何か別の形で救いが与えられる。それは本当にささやかなものかもしれない。我々はそのささやかさを「いい話」と感じる。
今回の中出しハッピーでも、子供が出来なきゃ結婚もできないという社会的な圧力が、不幸な境遇として用意されている。その構造が変わることは最後まで無い。しかし「子供ができることで結婚できた」という救いが与えられ(あるいは男性から見ると救いと感じられる結末が用意され)、それを読者は「いい話」と感じるんだな。
我々は「いい話」に涙するために、そういう不幸を作り出す構造を必要とする。フィクションだったらそれでも良いのかもしれないけど、困ったことに我々は「実話」の方に強く涙するような性質を持ってる。「いい話」を好むせいで、我々の関心は不幸を作り出す社会構造の解決へと向かいにくい。まさに落とし穴。
ただ、私はこれを「落とし穴」と呼ぶけど、別の見方もできるかもしらん。なぜ「いい話」が人々に好まれるかと言うと、たぶん人々に「不幸を作り出すような社会構造自体を変革することは無理だ」という諦観があるためだろな。根本解決して皆がハッピーになるような話にはむしろ「嘘臭さ」の方を感じてしまうんだろう。あるいはこういう言い方もできる。「いい話」とは人々が諦観と共に生きるための知恵でもある。「分不相応な望みなど持たず、ささやかな救いに満足して生きなさい」という社会的シツケのための説話としても機能してるんだろう。