プライバシーと差別

Google が社会的責任を果たすべき、と言うのは、先日 プライバシーの幻想を超えて で書いたとおり、全く同感。ただ、たぶんこういう声が出てくるだろうってのは私も予想してたし恐れてもいたんだけど、従来の「啓発」的方向の取り組みには正直賛成できない。

「ストリートビューというサービス開始の日ー爆発的に増殖する深刻な問題を見つめて」(2):北口学
日本には部落問題が存在し、教育・啓発の不十分さからGoogle社の新しいサービスは「2チャンネル」では「まつり」と言われるほど差別者が驚喜して差別扇動や差別記述を書き込み続けています。
教育・文化にも大きな貢献をする世界的企業、正義を愛する国際企業と自任するGoogle社は、今後、日本の人権と反差別、いや、アジア太平洋地域の人権擁護の活動にたいしてGoogleならではの企業としての責任・社会貢献を早急に開始しなければならないと言えます。
まず、日本の人権団体、被差別マイノリティ、アジア・太平洋をカバーする国際的な人権運動への積極的なヒヤリングと実態調査、会談、差別にさらされた人々と向き合い企業としてなさねばならぬこと、社会的責任と、反差別・人権擁護のためのプロジェクト、啓発へ大きな力と資金力を投下する責務があると思えます。

従来のままの啓発活動はむしろ差別問題を悪化させると思う。これについては先日いじめの社会理論を読んで確信を強くした。北口氏が挙げているような差別者は、そういった活動を「偽善」と非難したがる。私は啓発活動を偽善だとは思わないけれど、彼らがそう非難したがる心理メカニズムには一定の合理性がある。この本ではそこまで解説されてる。ただ、じゃあ啓発以外にどういう方法が取れるんだと言われると、私も良い代案が無い。とても難しいと思う。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いや、実は一つだけ代案ぽいものが無いことも無い。これは David Brin が今から10年前に書いた本 The Transparent Society の中で唱えたのだけど、むしろ全ての人から平等にプライバシーを剥ぎ取ってしまった方が差別撤廃を実現できる。例えば Internet を完全実名制にして、2ちゃんねるの発言も誰の書き込みか誰でもチェックできるようにすれば、問題となるような祭りは殲滅できる。Brin は「21世紀の社会で重要となるのはプライバシーではなくアカウンタビリティーだ」と言って、そういう社会が必然的に到来することを予言してる。私は Brin ほど確信が持てないので、そういう社会が本当に来るのか、それ以前に実現可能なのか、何ともわからない。だからこれを代案と言うにはちょっとなあと思う。ただ、彼の言うことに一理あるとも思ってはいる。プライバシーの侵害が差別を引き起こすのか、それともプライバシーが差別の隠れ蓑となっているのかについて、どっちが大きいかは判断が難しいけれど、後者も無視できないと私は思っておるのだ。
まあ私がどう考えるかはともかく、この The Transparent Society って、10年前に今の Google Street View な世界を当たらずと言えど遠からずな感じで予言してたり、いろんな意味で凄い本。たぶん Brin の言うことにはみんな賛成しないと思うけど、でもプライバシー問題を本気で考えるならお勧めの本だと思う。私のアフィリエイトリンクから買ってもらえると私も嬉しいし。
The Transparent Society: Will Technology Force Us To Choose Between Privacy And Freedom?

The Transparent Society: Will Technology Force Us To Choose Between Privacy And Freedom?