承認を勝ち取るコスト

むっ。似たようなことを書こうと考えてたとこだったけど、マッチョの権化に先に書かれてしまった。

難認簡接型社会「日本2.0」へようこそ (404 Blog Not Found)
その意味において、現代は接続開始コストがべらぼうに安くなった代わりに、接続強化コストがべらぼうに高くなった時代とも見なせる。マイミク1000人カレカノなし、もう充分みくみくにされてますってわけである。
なぜそうなったのか。かつてあった「強制承認」(forced recognition)が「うざい」ということでゼロに近いところまで減ったからだ。地縁血縁と言い直してもよい。そこには承認がある代わりに、「貴様かくあるべし」という呪縛(bind)もあった。代替不可能の見返りに変更不可能でもあったのだ。「そんなのつきあっていられるか」と反旗を翻したのが、団塊の世代。「大きな社会」との戦いには敗北した彼らではあったが、「小さな社会」に対しては見事な勝利を収めた。

この歴史認識はたぶん正しい。旧来の因習に縛られた「社会的なしがらみ」がどんどん無くなっていって、誰もが「自分のなりたいものになれる」可能性を手に入れた。ただしそれは可能性だけであって、本当になれるとは限らない。旧封建社会だったら誰もが「生まれた身分に従って予め決められた一定のもの」を手に入れられた。今や、運と実力次第で生まれに縛られずいくらでも高いものを手に入れられる可能性がある反面、運と実力次第では何も手に入れられずに人生を終わるリスクも大きい。
しかし、歴史認識はいいんだけど、じゃあどうしたらいいのか、という点は、むう、なんとも難しいな。dankogaiメソッドは「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」「リンクをたくさん張れば承認にまで強化できるリンクも見つかる」ていう前提に立ってる。ポイントはここだな。その点でp_shirokumaさんの指摘はちょっと論点がズレてるかなと思った。「リンクを無限に増やせば承認・所属欲求の代わりになるか」よりも「リンクを無限に増やせばその中から承認・所属欲求を満たせるような深い交流に育つものが自然と出てくるか」を突く方がいい。
これは私の考え方が古いのかもしれないけど、私はなんとなく、「リンクを張るのに要するスキル」と「所属・承認を勝ち取るのに要するスキル」は違うような気がしてる。ていうか前者はスキルいらんよな現状。
なんだけど、後者のスキルを、日本人はみんな教わってないんじゃなかろうか。学校でも教えてくれない。「仲間はずれはいけません、みんな仲良くしましょう」だけだかんね。そのくせ、実際にはいじめという形での仲間はずれが頻繁に行われていて、仲間はずれにならないためのスキルとして皆が身につけるのは「いじめ側に加担する」ぐらい。つまり、最初から所属できてることが前提で、そこからずり落ちずに地位を守るためのノウハウだけ身に着ける、ような状態かと。そこは、なんとかしなきゃいかんような気がしてる。
あるいは宗教かのう。宗教って言うと日本人は毛嫌いする人が多いけど、実際は日本人も宗教を求めてる面が強い。宗教はコミュニティの基盤となるもので、地縁血縁共同体が強固だった頃はそっちのコミュニティが承認を供給してたけど、それが崩れてくると宗教あるいは「宗教的な何か」が求められてくるわな。id:mkusunok さんがこんなことを書いてるんだけど、

承認欲求って昔から政治権力や宗教の源泉だよ (雑種路線でいこう)
まあ「オラどうせ百姓の子だし」って収まられるよりも「オラさ東京へ出て出世すっぺ」とでも思ってもらった方が経済成長のためにはいいんだろうが、行ってみると矛盾だらけだし、戦後に伸びた新興宗教って、地方から東京に出てきた層に帰属とか承認を提供したことは『日本の10大新宗教 (幻冬舎新書 し 5-1)』が書いている。本来は承認の供給不足が問題だったら、それは宗教がシャンとしなきゃいけないんじゃね?という気がする。

んで、時代はくだって21世紀ともなると、例えば「非モテ教」的な蠢きが出てきつつあるような。スイーツ(笑)女性を religious enemy に指定するとか、かなり宗教としてまともな形を成しつつある。ネットって実際宗教と相性がいいと思うんですよ。以前 duke が書いた忘我欲求も、宗教的体験にかなり近い。
とは言っても、そういうネット上の擬似宗教的コミュニティが信者を幸せにするかってえと、それも何ともわからんなあ。難しいところ。