家族は安全保障になるか

内田樹の研究室の週末婚?を読んで。哲学・精神論的には、いろいろと考えさせられる話ではあった。でも現実問題として考えると、送り返さざるを得んだろなあ。これには、「結婚や家族に対する考え方」という観念論よりも、「純粋に手が足りない」という物理的な問題が大きく響いてくると思う。

週末婚? (内田樹の研究室)
例えば、週末婚配偶者の一方が病気になったり、失職した場合に、他方の配偶者はこれにどう対応するのであろう。
(中略)
昔、あるインディペンデントな夫婦を知っていた。
夫婦それぞれ仕事を持ち、相当な年収を得て、お互いを束縛せずに、異性関係を含めてかなり自由に活動していた。
そういうのもありなのかしらと私は眺めていた。
その妻があるとき病気になった。
脳内出血で意識を失ったのである。
しばらく植物人間状態が続いたあと、夫は妻を実家に送り返した。
荷物みたいに。
お互いを束縛しない自由な夫婦というのも結構なことだと思う。
けれども、自分たちがその自由を満喫できるような条件が永遠に保証されているわけではないということは忘れない方がいい。
私たちは必ず年老い、病み、仕事を失い、心身の機能が低下する。
親族はそのようなときのための「安全保障」の装置である。

実際問題として、夫と妻の2人しかいない核家族で片方が植物人間になった場合、仕事を続けつつ面倒も見るというのはかなり厳しいと思う。週末婚に限らず、普通の結婚であったとしても。
そしてそれは、大家族(地縁共同体含む) vs 核家族という話に帰着できるんじゃないかな。昔の大家族は、当たり前だけど、人数が多かった。1人倒れてもその苦労を分散できた。ギャンブラーの破滅 のアナロジーで考えると「破産しにくい」わけだな。安全保障としてうまく機能してたと思う。上記の例だと、親族も人数がそれなりにいる。
大家族制が崩壊して核家族へと移行したとき、安全保障としての家族の機能も大きく失われた。ところが「家族」というものへの幻想だけは残った。「貧しいとき病めるときでも親族は見捨てない」とかいった幻想ね。そのギャップが様々な問題を生んでいると思う。介護しかり。子育てしかり。
上記の植物人間の例でも、愛があれば乗り越えられるのかもしれない。でも、愛のある人に苦労が集中するシステムって、果たして健全なんだろうか。日本社会って全体的にそういうところがある。いい人に苦労が集中するとか。そういう一部の人に苦労を押し付けるための道具として重宝されてるのがこの幻想・精神論なわけで。そういう社会構造はやっぱり変えてかなきゃいけない、と私は言いたい。
週末婚てのも、安全保障としての家族が崩壊してしまったという現実に日本人が日本人なりに何とか適応しようと足掻いている試行錯誤の一つだと私は思ってます。家族というセイフティネットを最初から期待しない生き方。その適応がうまくいくのかどうかはわからない。結局ダメだったということになりそうな気が結構する。でも、家族への幻想にしがみついてても、破綻は目に見えてるよね。
私は「家族以外のセイフティネット」が必要だと思ってます。社会的に。それがどういうものになるのかは正直よくわからない。福祉予算をいっぱい使って大きな政府が頑張るてのも選択肢ではあるけど、税金が高くなるとかいろいろ問題もあるわな。私は秘かに、Internet が重要な役割を果たせるんじゃないかとの期待を抱いてます。家族という比較的小さな血縁集団の果たしていた安全保障の役割を、もっと薄く広くネット上の人間で分担する。それは家族のような濃密な関係ではなくもっと希薄な関係になるから、家族の役割を全て代替するということにはならないだろうけど、時代の変化に沿った新しい形の安全保障として。全てを愛で解決する家族による安全保障と、全てを金で解決する保険ビジネスとの間に、その中間解があってもいいじゃない。いや具体的にどうなるかは私も全然イメージ沸かないんだけどさ。ネーミングとしては「地縁2.0」あたりで。
てなことを、30年前に祖父が足腰丈夫なまま認知症を発症してから死ぬまでの二年間を熾烈な戦いの毎日として実際に過ごした経験のある私は思うわけですよ。祖父には私の父親も含めて息子4人娘4人がいたけど、実際苦労を背負い込んだのは同居してた父の一家(つまり我々)だけだった。親族が生き延びるためのセーフティネットだあ? 笑わせるんじゃないよ。
私がこれから誰かと結婚することがあったとしても、自分の愛する人にあの苦労を背負わせたくは無い。「俺を愛してるなら俺の母親の面倒も見れるだろ? それが家族だろ?」なんてことは、何があろうと絶対に言いません。