ヒューリスティクスとロジック

[日常]より良い意思決定2差別は否定されるべきものか?差別についての一般的な話 (空気は読んで踏みにじるもの)
私が言いたいことは「ステレオタイプというのはそもそも人が意思決定するためには必要なものであり,そのような思考法自体を否定し,なくそうというのは無理な話だ」ということだ.「命を奪うことは悪いことだ」といって何も食べずにいれば死んでしまう.

えーと、「ステレオタイプ/ヒューリスティクスを完全に無くすのは無理だけど、減らすことはできるぢゃん? 現に私はそうやって生きてるわけだし」って話を書いてみます。
人間の頭の中でヒューリスティクスと言われるものが何をしているかと言うと、私にとっては「解空間の絞込み」です。別に人間が生きてく上でヒューリスティクスなんて本質的には必要じゃないと思うんですよ、フレーム問題さえ無ければ。まあフレーム問題は仕方無いわな。仕方無いから、ヒューリスティクスで解空間を絞り込みます。ある程度絞り込めば、後はロジカルに解を求めることができます。絞れば絞るほどロジカルな探索にかかる時間が減りますが、最適解を見落とす確率も高くなります。
つまり人間は、ヒューリスティクスとロジックを組み合わせて思考している、ということになります。この二つは補完し合うものであって、対立するものでは無い。「ヒューリスティクスで解空間をどこまで絞り込むか」という程度問題があるだけ。まあ、世の中の人は多くのケースで、ヒューリスティクスの段階で解を一つにまで絞り込んでしまう、つまりロジックを働かせる余地が全く無い、というのは確かに現実としてありますな。けど、絶対一つにまで絞り込まなきゃならんかと言うと、そういうことも無いでしょう。現に私は絞込みがもっとずっと緩い。
いやもちろん私も、ヒューリスティクスでどれだけ絞り込むかってのはケースバイケースで、その段階で一つに絞り込まれることもあります。けど複数の候補が残ることも多い。一例として「会話における単語の聞き取り」を挙げましょうか。私は普通に会話している場合でも、相手の言った単語が即座に聞き取れないことがよくあります。聴力が悪いわけではなくて、単語のパターン認識能力が弱いらしい。そういう場合は、とりあえず会話は続けつつ、いくつかの認識候補を文脈に当てはめて、一番意味の通りそうな単語を検索する、という作業を意識的に行っています。これは私にとってごく普通の行動であり、会話を続けている裏でパラレルに作業できます。慣れれば誰でも出来ると思う。
とまあそんなわけです。完全にロジックだけでってのはそりゃ無理な話でしょう。私だってヒューリスティクスを全く使ってないわけじゃないし。しかし人間の脳の働きってのは「100%ヒューリスティクス」と「100%ロジック」の二分法で割り切れるもんでもない。
でね、仮にこう考えてみませんか。もしも、「ヒューリスティクス100%」って状態よりも「ヒューリスティクス90%+ロジック10%」って状態の方が差別を減らせるとしたら、それはやってみる価値があるんじゃない? いや、具体的にどうすればやれるのかってのはこれから考えるけど。
あと、日本の街を歩いているアジア人的な顔をした男性には「とりあえずどの言語かで話しかけて通じなければ他の言葉でやり直してみればいい」でオッケーじゃね? ロジカルに考えるなら「この地域だと日本語を解する人と遭遇する確率が一番高い*1とかいう前提から考えるに日本語→英語→中国語という順番で試してみるのが期待値的に最も効率良いだろう」とかいう話になると思うけど。
てゆうか、この例について考えてみたお陰で思い当たったんだけど、ヒューリスティックな推論が本当に効果を発揮するのって「全く未知の状況」「情報がほとんどない状況」だよね。普通の日常生活で遭遇する状況の多くは、確率分布も既知だし、解空間も限定されるし、ヒューリスティックな絞込みが弱くてもたいして問題無く行ける。実際私はそうやって生きてるし。だけど人間は、思考のステップをすっ飛ばして楽をするためだけにヒューリスティクスに走りがち。日常的なことほどね。私だってたまたまヒューリスティックな能力が弱いのでロジックに頼ってるけど、そうでなかったらヒューリスティクスに頼り切ってたかもしれん。それってどうなんだろうなあ。とりあえず、「未知の状況で必要とされるヒューリスティクス」と「楽するためのヒューリスティクス」は分けて考えた方がいいと思った。

*1:「日本語を解する人と遭遇する確率が一番高い」というのもヒューリスティクスでは無いのか、との指摘を頂きましたので注釈をつけます。このエントリでの私のヒューリスティクスという言葉は「ヒューリスティックな推論」を指して使っていまして、一方「確率が一番高い」というのは推論の前提となる知識だ、と考えています。「その知識だって経験からヒューリスティックな推論によって獲得されたものじゃないか」と言う議論については、いや私の場合だとそれも上述のようにヒューリスティックな刈り込み+ロジックという方式で獲得されたものだから… という具合にリカーシブな話になります。でも言われてみると、ステレオタイプってのは推論過程というより獲得済の知識の話だから、そこは確かにもっと掘り下げて考えてみるべきだな。差別を防ぐためには、今まさに差別されようとしている状況での推論過程よりも、その元となるステレオタイプが獲得される状況での推論過程の方をどうにかすべきなのか。