驚異 vs 共感

これまたはっぱたんのとこで紹介されてた話。「本の雑誌」に出て来た穂村弘の文章だそうで。


今の読者にとって「わからない」ことへの抵抗感はとても強いのだ。確実に「わかる」ところに着地することが求められている。その結果、近年は小説などでも、「泣ける」本とか、「笑える」本とか、感情面での一種の実用書のような扱いになっている。「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本「笑える」本を求める読者は、圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう。言葉のなかに「驚異」など求めていないのだ。
大きく頷いてしまった。10年以上昔に私がゲームについて唱えてた主張 --- 「消費者がゲームに分かりやすさと親近感ばかり求めるせいでゲームがつまらなくなってる」 --- と同じ。
ただ、それから10年以上年齢を重ねた現在の私には、共感を求める人の心情も理解できんでもないのです。何かに傷ついたり落ち込んだりしている人って、あるいは傷つくことを恐れている人って、やっぱ驚異でなく共感を求めるもんだと思う。その方が一見癒されるような気がするから(本当はそうとも限らない)。んで今の日本にはそういう人が多いんかねやっぱ。私自身について思い返してみても、音楽について言えば春からこっち共感ばかりを求めていた気がしていて、それはいろんなあれが音楽に関連してたせいなのだけど。そんな中、久々の驚異がこないだのタンゴで、あれは素晴らしかった。でもそういう風に沈んでる人が驚異を受け入れる体験って、いろんな条件が揃わないと難しいんじゃなかろうか。
ところで元気なときには共感よりも驚異を強く求める私としては、「笑い」についても、実は「共感の笑い」と「驚異の笑い」の二種類があるんじゃないかと思ってます。私は人の頭の良さを「面白さ」で計るんですが、ここで言う面白さは「驚異の笑い」を取る能力です。地獄組で頭の良いトップ3は、いずれもその言動/思考様式が私にとってワンダーの塊で、日々面白過ぎる。それに対して、「ああーあるある」っていうような親近感・共感で笑いを取る方向性ってのもあって、まあそれも悪くは無いんですが、私は「笑いとして1ランク低い」と見てしまいます。今の消費者にとっての「笑える本」って、たいていそっちの方向性だよね。
ちなみに私にとって紙媒体としての驚異の最大の供給源は、日経サイエンスです。あれはほんとに面白い雑誌だと思うけどなー。同じ科学雑誌でもニュートンは明らかに共感の方を重視してて、だからニュートンはコンビニでも売られてるけど日経サイエンスは売られてないって話になるんぢゃろうね。