選択の自由

タケルンバ卿のアレは騒ぎが広がりすぎて全貌を把握してない、ていうか元から把握する気があんまり無かったんですが、まあ東浩紀が正論を迂闊に南京問題に延長して火事を起こした上に事後処理を大しくじりしたのと似たような構図と理解すべきか。性差別はジェンダー問題全体に絡む話なので厄介なんだけど、「その厄介さを理解せずして大口を叩いてる」的な印象を与えてしまったのはやっぱまずいわな。
ところで元記事を読んでいて、あの課題の設定された目的(どの価値観を重視するかという話)とはかなり離れたところで、ふと哲学的な疑問が沸きました。選択の余地があるのと無いのと人間はどっちが幸せなんだろうという話。私は君子危うきに近寄らぬを実践するので、性差別問題に巻き込まれないよう別バージョンに移植してみます。

子供の一人が難病になった。高額の治療を受ければ治るが、そうでなければ死ぬ。両親が大変な借金をして子供に治療を受けさせた結果、難病は治ったが、病院から帰る途中に全く関係ない交通事故に巻き込まれて結局死んでしまった。両親と他の子供はその後長く借金に苦しむことになった。
もし治療手段が最初から無ければ、両親も難病の子供の命は諦めていただろう。その方が幸せだったのだろうか?

これは哲学によくある「正答の無い問題」です。正答が無くても考え続けることが哲学の本質なんだと言う人もいます。ほんとかどうかはわからんが。しかしまあこういう話を考えてみることは基本的に良い経験なんでないかと思う。これは病院バージョンですけど、闇金融バージョンとかいくらでもバリエーションは考えられます。同じ構造を持つシチュエーションって実世界でも結構あると思うんですよ。もちろん、回答はその場その場で違っていいとは思いますが。