小市民からの脱出

やっぱダンコーガイさすがだなあ。全く同感だ。

小市民の敵は、小市民 (404 Blog not found)
しかし、その小市民の幸福を奪い合っているのが、他ならぬ小市民としたらどうだろう。

ただし、「マッチョにならなければ幸福になれないか」という話に直接コメントするのは避けておいて、別の方向に目を向けたい。青臭い理想主義とか机上の空論とか言われるのを承知で敢えて言おう。今週はいろいろあったせいで、これを言わずにおれん心理状態なのだ。
他人の痛みを少しでも理解できるようにならんか、みなのしゅう
もっと詳しく言うとこんな感じ。
例え他人が自分の痛みを理解してくれないとしても、自分は他人の痛みを理解できるようになろう、そう思わんか
小市民がなぜ小市民同士で傷つけあうのか。その理由はこう考えればわかる。

  • 人は他人の痛みがわからない。これはマッチョも小市民も同じ。
  • 小市民は「他人は俺の痛みを理解して何とかしてくれるべきだ」と考える。
  • マッチョは「他人の痛みは理解できないから自分で何とかするべきだ」と考える。
  • だからマッチョは幸福になれるし、小市民は幸福になれない。

しかしだな、今週の私は精神状態が尋常でないので、「正気じゃないだろお前」と言われても仕方ないことを言ってしまうのだ。

  • 小市民でもマッチョでもない道、「自分の痛みを他人に理解してもらえないとしても、自分は少しでも他人の痛みを理解しよう」てのを目指してみんか

マッチョになれない人でも、この道なら小市民から脱出できるんぢゃないか。
はっきり言おう。この道でもやっぱり幸福にはなれんかもしれん。まあ私の経験上は難しいな。なんだが、幸福になることだけが人生の目的かっつうと、私はそうは思わんのだ。昔からずっと「違うだろ」って思ってきたけど、今はさらにその思いが強くなってる。幸福になれんかった負け犬の遠吠えかもしれん。でも何度負けても私は吠えるのをやめんよ。
もちろん、他人の痛みを完全に理解するなんてことはそりゃ絶対できんわ。しかしだな、「だから理解しようとしても無駄」と思うか、「少しでも理解に近づこう」と思うかでは、やっぱり出てくるところが違ってくる。大事なのはそこなんじゃないかい。