最大多数の最大幸福

ところで私は全体最適主義者で、つまり「最大多数の最大幸福のためなら少数を犠牲にすべし」を標榜しています。これは一見すると、一昨日書いた 差別のヒューリスティクスの話 と矛盾するように見えなくも無いので、その点について補足説明をば。
私が最大幸福のための犠牲を是とするには、次のような条件が付きます。同じ人ばかりが犠牲になり続けないこと
なぜこの条件が付くかと言うと、私の言う「最大多数の最大幸福」が「全員の幸福」を指しているためです。次のような例を考えてみてください。10人のうち1人が10,000円損することによって残り9人が5000円ずつ得をする、という状況があったとしましょう。この状況で私が最良と考える行動は、「損をする人を順繰りに回して行って繰り返す」ことです。10回繰り返すと、全員が平等に35,000円ずつ得をすることになります。めでたしめでたし。
しかし損する人が固定されていたらどうですかね。1人だけが100,000円損をして、残り9人は45,000円ずつ得をする、なんてのは。それは「全員の幸福」にならんぢゃろ。私の目指すところから外れてしまいます。
もちろん現実には、そうそう同じ条件では繰り返して行えない、ということの方が多いでしょう。その場合には、得した人から損した人へ何らかの補償があってしかるべき、と考えます。こういうケースだと得した人の得ってのは損した人の犠牲の上に成り立っているので、当然のことでしょう。同様に、少数の犠牲の上に社会全体を得をするなら、社会全体から犠牲者に補償があってしかるべき。まあ「どれだけ補償すればいいか」ってのは確かに難しいところです。損得がお金だけなら楽なんですが、非分割財のケースも多々ありますし。心理的なダメージってことになるとますます難しい。まあその辺はリソースの分配を司る学問である経済学の人たちに任せて私は逃げることにします。
そんなこんなで私は、「犠牲者が出るのはいいが、犠牲者が固定されるようなことはいかん」と考えてます。「犠牲者が出るだけなら差別ではない、しかし同じ人がいつも犠牲になるのだったらそれは差別だ」と言えるかもしれません。
ところがですね、この私の考え方に真っ向から対立するのが、前回も書いた「自分は悪くない、犠牲になる方が悪い」という心理なんですよ。この心理の背景には、「自分が加害者である」と認識してしまうと良心の呵責に引きずられてしまうので、そこから逃れるために生じる防衛機制が大きい、と私は見てます。根っからの悪人はそんな防衛機制なぞ必要としません。防衛機制に走るのは良心の呵責から逃れられない小心者だから…いやまあそれはどうでもいい。とにかく、犠牲にする側(つまり犠牲によって得をする側)がこのような考え方に立ってしまうと、犠牲にされる側が固定され易くなってしまいます。ましてや補償なんて行われるわけもない。こういう落とし穴を防ぐためにも、「自分も加害者である」という意識をみんなに持っていてもらいたいと考えるわけです。
しかし、「自分も加害者である」ことに罪悪感を持ってしまうと、こういう良くない防衛機制に嵌り易い、というのも人間の心理としてはあります。これを何とかするには工夫が必要でしょう。私なりのアイデアとしては、「道徳的な罪悪感ではなく経済学的な不均衡と捉えたらどうか」というもの。上の例だと、1人を犠牲にしたお陰で全体としては35,000円の得になったので、これは良いことなわけです。ただその分配が現状でまだ不均衡なだけ。後は分配の不均衡を直してやれば完璧でしょう。「その1人への不均衡を直さなきゃいけないってことを ToDo として忘れないようにする」と考えれば、ちったあマシにならんかな。
まあそんな感じなんですが、私のアジェンダに都合の良い例ばっかり引っ張ってきてて虫のいい話ぢゃよのうとは自分でも思ってまして、現実には「犠牲者が死んじゃった場合はどう補償するんだよ」とか難しい話もいろいろあるんですが、こんな風に一歩一歩考えてってなんとか良い方向に持ってくことはできんもんですかね。
ところで、以上の話を読んでもらえればわかるように、この手の差別問題の話になるとよく出がちな「差別される人がかわいそうだ」「もっと思いやりの心を持とう」的な訴えかけに敢えて触れない方向で今回は論旨構成してみました。そういう訴えかけには私も心を動かされないでもないのですが、今回は私の考え方を説明するエントリであり、そういう局面では感情的な訴えかけを採らない方が良い、と判断しました。